夢を抱いて新天地へ
2025年 10月 14日


船から最後に見る祖国の風景は、青くけぶる六甲山の山並みだったそうです。
今回私は、自宅から徒歩で5分の「海外移住と文化交流センター(移住ミュージアム)」に行ってきました。
三宮からは、7番の市バスに乗り、山本通3丁目で降りて3分ほどのところです。

入館料は無料ですが、見ごたえのあるミュージアムで、QRコードの読み取りで、自由に説明が聞けます。スマホとイヤホンがあると、時間があっと言う間にたってしまいます。もし、スマホがなくても、親切な学芸員やボランティアの方が説明してくださいますので、受付でお願いしてみてください。
実は、私もいろいろ詳しいお話を聞かせていただきました。
矢野さん、岸本さん、ありがとうございました。
この建物は、石川達三の『蒼氓』にも出て来る、元「移民収容所」です。
1928年、神戸再度山のすそに、「国立移民収容所(後の神戸移住センター)」ができました。
当時は国策として、ブラジルなどの中南米諸国に、25万人の移住者が送り出されました。
遠い異国に夢を求め、海を渡っていった人たちは、渡航までの7日から10日間、祖国での最後の時間を、ここで過ごしました。
渡航費用を国が負担する条件は、原則として働き手が3人以上いる健康な家族であること。
彼らはここで、健康診断や予防接種を受け、言葉など予備知識を習いました。
建物内を歩くと、天井が低いことに気づきます。それは、これから長期にわたる船内での生活に慣れさせるための配慮だったそうです。
当時、二段ベッドが並んでいた部屋には、今は、ブラジルと日本の子どもたちの描いたかわいい絵が展示されています。

カメハメハ大王のハワイ王国から始まった日本人の移民は、ハワイがアメリカになってから南米に移り、ブラジルでピークを迎えます。
彼らの大半は、船で喜望峰を回ってサンパウロにつきました。

私事ですが、私はブラジルとは縁があります。
奔放な性格だった伯父が自由移民で、ブラジルに渡っているのです。心配した祖父が、落ち着くまで見届けると言ってついて行ったのですが、そのときブラジルから持ち帰ったお土産が、アルマジロのはく製。南米にしかいない珍しい生き物ですが、処分に困った母が、私の小学校に寄付しました。
そのアルマジロ君が、元はうちの子だったと言うことは、卒業まで誰にも言いませんでしたが、私は、理科室でそのはく製を見るたび、学校の怪談よろしく、夜に彼が理科室をコロコロと転げ回って遊んでいるところを想像したものです。
伯父は、サンパウロで日系2世の女性と結婚し、彼が亡くなってから一度、従姉が神戸に逢いに来てくれました。
母は涙ぐんでいました。神戸港で別れてから亡くなるまで、結局、兄妹は会えなかったのですから。
私も、お土産にブラジルの国蝶オオブルーモルフォの額をもらいました。
その後、よほどブラジルと縁が深いのか、夫がサンパウロに駐在になりました。私は、家の事情で帯同できなかったのですが、二度ブラジルを訪れる機会を得ました。
飛行機で行っても、神戸からサンパウロまで、ドアtoドアで、31時間。もう、ふらふらでした。
でも、船で行かれた移民の方々は、それどころではなかったのは言うまでもありません。
移民した多くの方は、木々を伐採し、開墾して、コーヒー農園を作るなど、農業に従事されました。

木の根っこに巣を作る蟻を駆除するための殺蟻剤をいれる道具と、それを使用しているところです。


移民の方々は、いつか故郷に戻る日のために、子どもたちに日本語を教えておられたそうです。
実際、私が知り合った2世3世の方々も、カタカナを書くことができて、日本語をとても流ちょうに話されました。

日本語の教科書の表紙が、オオオニバスとワニなのですよ。
ワニは、ブラジルでは、川にいる一般的な動物で、小さなワニをペットとして飼うこともあるそうです。
なつかないそうですけれど。
私は、二度目にブラジルを訪問した時、パンテノール湿原のスクリー川で、シュノーケルとスイムスーツで、2キロの川流れをしました。カヌーで、ついてきてくれるガイドさんが、「時々、ワニが丸太のように川に横たわっているので、注意してください」と言っていました。YESと答えたものの、よく考えてみたら、
どう注意しろと言うのでしょう。センターに置いてある大きなはく製の牙を見て、今更ながら、ぞっとしました。


第二次世界大戦では、日本はブラジルの敵国になり、日系移民は、強制収容所にいれられ、大変な思いをされました。辛い歴史です。
その後も勤勉な日本人は、ブラジルの発展に力を尽くしてきました。
1960年、首都がリオからブラジリアに移されました。何もない人工未来都市ブラジリアを作る際、都市の周りの土地を日本人に与え、食糧確保をしたことは有名です。
ブラジルの農業を語るとき、勤勉な日本人の貢献は決して忘れられないものです。
「海外移住と文化交流センター」は、今、ポルトガル語の教室や、子どもたちの交流の場などに使われていますが、一般の人もホールや、セミナー室を格安で借りられるので、地域の文化交流の場にもなっているそうです。日系ブラジル人は、270万人。日本にも21万人が生活しています。その始まりが、神戸に残っています。
雄大な自然や、数々の歴史を物語る写真や貴重な資料、実際に使われていた道具や、直接さわれる巨大なアメジストの原石、
親子のワニのはく製など、興味深い物がたくさんあるので、お時間があるときに、ぜひ、地球の裏側に思いを馳せ、足を運んでみてください。
(樹 葉)

